パッチワークス活動記録 | 愛媛劇団

愛媛県松山市を中心に演劇活動する劇団です。

「まつもと演劇祭」という演劇作品と過ごした3日間。

「まつもと演劇祭」という演劇作品と過ごした3日間。


こんにちは、パッチワークス主宰の村山です。


先日9/28〜30に長野県松本市で行われた「まつもと演劇祭」に地域劇団として採択され、参加上演させていただきました。


ご来場いただいたお客様、永高さまを始めとしたまつもと演劇祭実行委員会の皆様、同じ会場で何から何までお世話になった経帷子の皆様、代表の廣田さま、

同じ座組みで創作した、宮田さん/zooさん/村上さん/今野さん、見学に来てくれた爆心ツアーの忽那さん、きよしこのよるの木邨さん、他この上演に際し関心をもってくれた方、アドバイスをくれた方、応援してくれた方々、本当にありがとうございました。


今回の作品「X(キー)」は「演劇」が内包する独裁制、演出に対するある種の「答え合わせ」、自由なはずの役者が不自由になることが、

時代の価値観に人が囚われて言葉が不自由になることと同じ空気を感じたことから始まっています。


演劇は多様であり、多彩であり、自由であり、必然の粋である、と思っています、思っていたいというか。

社会の価値観からそう人は自由になれない、その価値観に抑圧された属性や零れ落ちたものに気づくことなく過ごしている自分が行う演劇が多様なのか、多彩なのか、自由なのか、必然なのか、それを本当に宿しているのか。


それは演劇がそう合って欲しいという願いなんじゃないか、そうあれかしという願いなんじゃないか。


芸術や文化、演劇が時に社会の抑圧側や戦争加担してきた歴史を見ればどれだけ社会の空気、価値観に対して自由であることが難しいか。

震災デマに心痛めていた人が大雨災害でデマをリツイートしていたように。


僕は一人では自由になれないと感じています。

たくさんの知見、価値観、視点、言葉、それぞれがそれぞれの当事者として発する言葉の数、種類、意図、意志に接することで

自分の一つしかないそれに自由を与えてくれる、偏りを薄めてくれる、と。


演劇が多様多彩自由必然であるのは在り続けているのは、そこにたくさんの言葉が沢山の人によって内包され、演劇が人が生きるということを包摂しているからだと信じています。


その意味で僕は「まつもと演劇祭」でたくさんの「自由」を感じました。

それはその場所で演劇をしている、してきた、関わってきた、観てきた、人たちが演劇を表す言葉を育み続けてきた表れと感じています。


演劇を続けること、演劇をすることの一面は、感じたものを表すことだと思います。

まつもと演劇祭はその実施期間、その場にいる、その街にいる人達が感じたことを表し、それを観た方が感じたことを言葉に表し、対話する、一つの演劇公演であったと感じています。


第23回本公演「まつもと演劇祭」に出演できて幸せでした。


僕は演劇の持つ力とそしてその演劇を育ててきたまつもと演劇祭に関わるすべての方のおかげでまた演劇を続けられます。

ありがとうございました。


また演劇の現場で会えると信じています。

本当にありがとうございました。


パッチワークス主宰 村山公一


f:id:patch-works-mk:20181004194200j:plain

【まつもと演劇祭参加によせて(パッチワークス主宰 村山公一)】

まつもと演劇祭、本当にいい時間ありがとうございました!当日パンフレットに書いた言葉を転記します。

今「演劇を表し現す」ことを考えて、思ったことを書きました。


以下文面


こんにちは、四国愛媛で演劇活動をしているパッチワークスの村山公一と申します。

今回まつもと演劇祭で上演の機会をいただき、本当に嬉しく思います。

そしてご覧頂いている皆様、まつもと演劇祭実行委員会の皆様、

そしてこの場ではありますがいつも刺激と勇気を与えてくれている各地の演劇仲間の皆様、他多くの方々のおかげで演劇ができます。

本当にありがとうございます。


「地域で演劇をすること」、まつもと演劇祭のシンポジウムの中で僕は「多様性の担保」という言葉を選びました。

演劇が「ある」こと、そしてその演劇の中でも多様で豊かな表し方が「ある」ということ、それはここは、地域は「いろんなものがある、あっていい」場所と

いうメッセージを放つと考えています。

それは演劇に限らずダンスに絵画、音楽にスポーツ、趣味に挙げられる数々、それぞれが人がそこにいたい、いていいと感じられる、

「あった方がいいもの」だと信じています。


その上で「地域で表す」ということが多くの場合「東京」と対峙する場面があり、

その都度「東京」に対しての言葉が求められることがあります。


もはや別の国ほどの所得差とインフラ、そして東京の文化圏で踊り消費される「これからは地域の時代」という言葉。

それに抗うのではなく、無視するのではなく、卑屈におもねるのではなく、妬むのではなく、「今ここ」で表し、発する人間として、

踏みとどまり、対峙し、対話の言葉を持ちたいと思うのです。


演劇は必然性の文化だと僕は捉えています。

意味のない存在であっても「意味がない」という意味を持ってそこに「在り」、演劇の必然性を構成する要素として輝きを放ちます。


だとすれば「地域で演劇をやる」ということは、「演劇」が地域でやることを必然性として活かしてくれる、活かさずにはいられない、

と信じています。


僕は必然性に代替はない、と考えます。

その地域でしか出会えなかった人たちと、その地域で作った、その時その場所で培った、表し現さずにはいられないものに代替できるものはないと

思います。


演劇を続けることは思考し続けること、そして対峙し対話するための言葉を表し現し続けることだと今思っています。

東京だけではなく、時代や環境、職場や学校、家族や友人、日々変わる「続けていく」ために対峙対話する対象に届く言葉を。


「わかりあえないことをわかりあう」


ことから始まる言葉と対話があると思います。

対立ではなく対峙からの対話を願います。


本日はご来場ありがとうございます。

お客様と対峙するまでが「これまで」、そして上演終了から始まる「これから」を持って僕は演劇を続けられます。

本当にご来場いただき、ありがとうございました。


パッチワークス主宰 村山公一

カブフェス2018を経て。これまで、から、これから。

カブフェス2018を経て。これまで、から、これから。


こんにちは、パッチワークスの村山です。

先週末通称カブフェス、株式劇団マエカブさまが毎年開催されている演劇祭に参加させていただきました。


観たいもの、観てほしいもの、会いたいひと、会えたひと、話したかったひと、話しかけてくれたひと、たくさんのいい時間を

今年もいただきました。


この時間を生み出し続けてくれている、そしてそれを支え続けてくれているマエカブの皆様、ありがとうございます!

この時間を共有した、できた、各地の演劇と生きている皆さま、僕は「続けていく」勇気をもらっています、ありがとうございます!

そしてご覧いただいたお客さま、僕は皆さまの声や反応を受け、対話の返答として演劇を作れています、ありがとうございます!


本当に楽しく嬉しく勇気づけられた時間でした。


きよしこのよるの代表、木邨さんがSNSに「いろいろな人がいる」という気付きを書かれていました。

演劇の魅力的な特性の一つ、「多様性」を端的に記されていると感じました。


僕は「演劇」は多様であり、イメージ・見方に縛られない、それでいて手を伸ばさずにはいられないものがあると感じています。


演劇が社会を映す鏡としての側面があるのであれば、それはきっと演劇自身が社会を包摂して映す輝きを変えられると思うのです。


いろんな演劇があり、いろんな作り方があり、いろんな関わり方があり、そしてどれも誰もかれもどこも「演劇と在る居ること」を考えた上での提示が、あの場所、披雲閣にはありました。


僕は参加団体の皆さまからいろんな影響を受けて、いろんな勇気を受けて、演劇を続けます、続けられます。


戦い方も、踏みとどまり方も、付き合い方も、見つめ方も、距離のとり方も、演劇というそれぞれの場所、時代、人、視点によって定義が全く異なる言葉に集った人たちが示していることで学びを得ています。


本当にありがとうございました。

パッチワークスは演劇をします。


追記1)ものすごく影響を受けて受け続けている、福岡の演劇ユニット「そめごころ」の皆様と写真。嬉しさを隠しきれず。

中打ち上げの帰りの車中、「そめごころ」の素敵さ凄さ印象をひたすら話していました。伝われ、この興奮。


追記2)写真の少なさ、というよりいつも撮り忘れるパッチワークスですが今回ちゃんと撮りました。

しかし基本的に集合写真というものがない上に僕が全体撮影ではぐれたため、まったく違う場所に、、、なんてこった。


追記3)そめごころさんの物販台本をほぼコンプリートしました。


追記4)メンバーの宮田さん/村上さんがいろんな人とどんどんコミュニケーションとっててすごいと思いました。

見習おうと思います。


追記5)民泊がめちゃくちゃオシャレでした。


追記6)感想もらえたらちょー嬉しいです

f:id:patch-works-mk:20180912132625j:plain

まつもと演劇祭シンポジウムで話したこととかその補足(みたいな)

まつもと演劇祭シンポジウムで話したこととかその補足(みたいな)


こんにちは、パッチワークス主宰の村山です。

まつもと演劇祭シンポジウム「地域で演劇をする意味とは」に参加するために、

愛媛FCの応援で行った以来、2度目の長野松本に行ってきました。


地域で演劇をする意味とは、という問いに対し僕は「多様性の担保」という言葉を選びました。


その前提として、僕は比較とゼロサム思考が作る空気の息苦しさ、「本物」や「より価値のあるもの」だけが

生き残ればいい、生き残るべき、という価値観が地域、特に人口減少社会で社会のリソースが少なくなっている今、

蔓延していると感じています。


土建インフラより文化、サッカーより野球、野球よりサッカー、演劇よりダンス、ダンスより福祉、文化に助成する文脈で

他方の価値を下、もしくはより自分たちの方が価値あるという語り口が見ることがあります。


その比較とゼロサムの先は「それに関わる人はいなくていい、もしくは不可視でいい」という排除の論理につながっていると捉えています。


演劇に限らず、文化は「人がよりよく生きる」ために「あった方がいい」もので、多様な人が多様なまま、その人の在り様を否定されず「生きやすい」社会のは多様な文化が「あった方がいい」と考えます。


演劇が「在れば」演劇が好きな人がその場所に「居ていい」と感じることができます、野球もサッカーも、ダンスも絵画も、写真もここに挙げられていないいろんな文化が「在れば」それを好きな人が「居ていい」、その地域に居場所を見つけることができる、それこそが文化の持つ力の一つ、「多様性の担保」だと思います。


僕は自分の好きな地域、愛媛県が「色んな人にとって住みやすい、生きやすい」場所としてもっともっと魅力的になってほしいし、なれると思います。

そのために僕は「演劇」を選んで、それを続けて、愛媛で演劇をしているということを提示し続けたいのです。

愛媛にある演劇をする、団体個人、それぞれがそれぞれの「演劇」を信じ続けていることで僕は勇気づけられ、そして多様な文化の中でさらに演劇の中でも多様であること、演劇の中にももっと広い世界が広がっていることを感じています。


文化が「在ること」を示すことで人が「在っていい」と感じられる、「地域で演劇をする意味とは」、

僕が演劇やサッカー、そして色んな文化や人がそう感じさせてくれたことを「続ける」ためにと考えます。


がんばります、そして演劇をやる皆様、がんばりましょう。

宜しくお願いいたします。


パッチワークス主宰 村山公一

吃音ヒーロー感想 悲劇か喜劇かの露悪な問いとマクロス文脈としての劇中劇

吃音ヒーロー感想 悲劇か喜劇かの露悪な問いとマクロス文脈としての劇中劇


こんにちは、パッチワークスの村山です。


先日徳島に劇団まんまる「吃音ヒーロー」を観てきました。


f:id:patch-works-mk:20180808131701j:plain

高知から新しい役者新しいスタッフ、追加されたこと整理されたことなど変化や差分があったことで

自分の中で腑に落ちるところがあったので感想として残そうと思います。


言葉の「情報」は伝わらなくても「伝えようとする」ことはしっかり伝わっている


登場人物の脚本家は吃音であり、言いたいことが表せないこと、そして脚本・文字という形であれば十全に

表せる、とされていてそれを本人も口にするのですが劇中で彼が言いよどんでも周りはその意図をある程度は汲んでいて、

言いたいことが表せないことによる弊害はそう出ていないように見えました。

むしろ本人が「伝えたい」ということはしっかり周りは受け取ろう、「そういう性質の脚本家だから」なにか言いたいんだろうな的な

信頼すらあって、いい劇団じゃないかとすら感じました。


むしろ「劇を王女に観られることによって起きる結果を避ける」ための手紙は【検閲なく/直接手渡せる】状況であるにも関わらず、本題を避け、遠回しかつかえって意図にモヤがかかるような言い方に終始したことで結果が「観る動機づけ」になったことから、脚本家は「文字なら言いたいことが言えている」という認識の歪みすらあったように見えて。


そしてあの劇中に登場する人物たちの行動が

「脚本家が言いたいことを言えなかったからそうなった」と脚本家が考えているようなものに見えて、進行中の物語のところどころに「後悔」の

匂いを感じてました。


これは「終わった出来事を物語にして上演している」ものだと僕は捉えています。


脚本家のキツオが過去にあったこと、終わった出来事を「演劇」というパッケージに再編して、自身の後悔や周りに起こったことを「わかりやすく」言い換えて、自身の行動の後悔を「悲劇か喜劇か」と問いに言い換える「演劇の欺瞞」を使って自身の過去を整理のつかない心の葛藤を観客になすりつける、ある種の露悪性、そのための処刑や街の人を記号化することもいとわない割り切り、あれは劇中劇として脚本家キツオのひとり語りだと感じています。


アニメのマクロスシリーズは劇中劇として描かれています。

過去にあった出来事、戦争を「物語」として上演している、という設定です。


都合の悪いところは「そういうもの」で流し、物語として使いやすいところは強調され何度も使われます。

最前線で歌姫が歌わず、後方でガチガチに固められたシェルターの中で歌い、相手には

スピーカーミサイルをブチ込んで強制的に聞かせる戦術的な使われ方をしてたとしても、「物語の要請」として歌姫は最前線で歌うように。


キツオの自身の問いを演劇として観客に強いる、ある種の暴力性すら、そして自身の葛藤を共通の問いに見せかけて自分の整理のつかない思いを観客と共有させ、自身の孤独を癒やす、そんな寂しいキツオの姿が見えるような気がしました。


そしてそういう欺瞞を自覚しながら孤独に耐えきれず、表現で「問いと後悔」でつながろうとする寂しい人間くさいキツオがいいと感じました。


そういう意味で「生きることは心が未来を目指すことだ!」に対し、その瞬間キツオが言い返せなかったんだろうなと想像してます。

その瞬間、そのときにその言葉に対し答えられなかった後悔を演劇の場で言い返しているんだとしたら、すげー友達になれると思います。

考えて考えて考えてそれに対して出てきた自分の答えが「生きることは生きることだ」というトートロジーが出てくるあたり、

吃音だから、言いたいことが言えないという「自分の中の理由付け」すら自分で欺瞞だと薄々気づいてたんだろうなとか。

書いても言いたいことも表せず伝えたいことも伝わらないということとか。


「分かりあえない」ことに要因はあっても主因にはならない、「伝わってしまうこと」で相手をどうやっても許せないとわかることすらある、

だとしたら「問い」だけは共有できるんじゃないか、それが「これは悲劇か喜劇か」、その問いを自分で消化できないキツオの弱さが好ましいと思います。その問いのために登場人物を芥のように使うことすら厭わないキツオの割り切り方が大好きです。


消化器呼吸器にダイレクトに作用する疾患に対し、一番苦しむ方法で、実際はのたうつ王女を民衆がサーカスとして消費したフランス革命のようにおぞましいものだったかもしれない、それを演劇として「きれいな死」にパッケージして提示するキツオの罪悪感と欺瞞と人間的弱さ、露悪的とすら見えるラストあたり、とっても「人間」を感じる話だと捉えています。


やりたいことやらずにはいられないこと、をそれぞれの場所で続けるしかないんだろうと思います。

そしてそこから、があることくらい信じられるんじゃないかと思います。


劇団まんまるの皆様、がんばりましょう、がんばります、がんばっていきましょう。


パッチワークス主宰 村山公一


【パッチワークス「∩」広島公演についてのお知らせ (演目/19:00の回中止について)

パッチワークスより7/22の広島公演について演目リストの変更および19時の回の中止についてお知らせいたします。


この度の豪雨による災害並びにそれに伴う事情により、予定していましたWorld Wide Works『風習』の上演を中止します。広島公演に参加するのはパッチワークス、劇団ハタチ族、ティッシュの会の3組のみとなります。


合わせて公演主催者側の都合により、7/22(日)19時の回の公演を中止します。広島公演は、11時、15時の2ステージのみとなります。ご了承ください。


直前の変更並びにお知らせとなり、大変申し訳ありません。

よろしくお願いします。


広島公演に関するお問い合わせはこちら


Email : patch.works.mk@gmail.com 

Tel(mobile) : 090-2828-7037 

(担当:村山)

Unit out 「季、寄せ来〜き、よせく〜」に寄せて(制作協力パッチワークス主宰 村山公一)

おはようございますこんにちは、パッチワークスの村山です。


今回Unit outさま本公演「季、寄せ来〜き、よせく〜」に制作協力で参加させていただき、

いよいよ高松公演が来週末6/23・24にあります。


たくさんの方に観に来てほしく、観てほしく、そしてその公演の時間を共有する参加者になってほしいと思っています。


Unit out、そして玉井さんに対しての思いを改めて。


玉井さんがよく口にされる言葉で「今」「ここ」というものがあります。

玉井さんの演劇観を端的に表した言葉で、それは作風、演出につながるものと感じてて。

「今ここ」で行われていることへの思い、執着、その儚さへの寂寥感、それゆえの眩さへの憧憬、それを込められたものが

役者を通じて舞台に「そう在れかし」と現れ、それが観客を「観察者」から「参加者」に変えてしまう当事者性を持つ空気を

生み出していると感じています。


この「今ここ」へのある種拘泥すら纏い、表れる、Unit outの公演には「再現性」はなく、その場その時その瞬間だけしかない、

「演劇」だからこその時間があります。


だからこそ、の「出会い」をUnit outの公演に感じます。

そしてそれは「また」がないからこそ、生まれるものがその場を共有した人、役者・スタッフ・お客様、それぞれにあると思います。


「地域で演劇をやること」は「今」だからこそ「ここ」だからこそ、そして「今そこにいる人」だからこそ、の

必然の積み重ね、言葉の積み重ねだと僕は考えています。


「地域で演劇をやること」に対して社会や周囲からの「問い」に対して「公演」という必然の集合体で答えて応え続ける、

Unit outの在り方を観て欲しいと思います。


人が居て、人が訪れ、交わり、去り、その残り香が残る人を変え、

人が人として意図せずとも「そこに在った」ことから生まれてしまう物語、そういう印象を「季、寄せ来〜き、よせく〜」に

僕は感じています。


6/23・24 高松swaggで「今ここ」を感じていただければと思います。

よろしくお願いいたします。


制作協力 パッチワークス主宰 村山 公一


(追記)


そして同日6/24パッチワークス本公演「∩」高知公演があります。


僕は制作としてUnit out さまを観て欲しく、そして自身の公演もまたいい時間を作りたいと考えています。


「演劇を観る」ということは決してゼロサムではないと思います。

どこかが公演したからどこかの公演のお客様が減る、その「狭さ」は演劇の「広さ」にはつながらないと感じます。

たくさんの公演が演劇が行われることでよりたくさんの方が演劇に触れ、

そしてそれがより豊かな観劇と創作環境につながると信じています。


僕はパッチワークスがこの1年を通じて感じた「広さ」を「∩」で表したいと思います。

Unit outとのはしご割あります。ぜひご活用いただければ!

よろしくお願いいたします。


f:id:patch-works-mk:20180614123711j:plain

f:id:patch-works-mk:20180614123735j:plain